活動状況

田原坂観光ガイドの会の活動状況をご紹介します。

田原坂西南戦争資料館内のガイド


資料館内部にある歴史パネルの説明

有名な西郷さんのご先祖さまは熊本?

そのカギはなぜ大島で菊池源吾と名乗っていたか!

田原坂の写真

一ノ坂から三ノ坂の激戦模様の説明

写真の中にある不思議な柱とは?

実際に使われた当時の銃砲

薩軍と政府軍の小銃の性能の違いの秘密とは?


田原坂公園内のガイド


展望台での眺望

三ノ岳、半高山そして二俣台地。遠く雲仙を眺めながら地獄峠や警視抜刀隊の激戦を熱く語るガイド! 

慰霊碑

西南戦争で亡くなった約14,000名の両軍兵士の名前が刻まれている慰霊碑と高く造られた慰霊塔。君のご先祖の名前もあるかも? 

樹齢300年を超す大楠

いまも大楠の中には銃弾が残っている。田原坂の激戦を見てきた生き証人。 




馬上ゆたかな美少年

はたしてそのモデルはだれだ?

民謡にまつわる悲しい物語!

三ノ坂の地獄を見渡せる薩軍陣地!

政府軍が越すに越せなかったわけが分かる加藤清正の知恵!

政府が建てた唯一の記念碑『崇烈碑』

田原坂の戦いの意義と重要性が分かる。横から見ると観音様が見えるミステリー?



※ガイドのご予約については、こちらをご覧ください。

ミニ講演会(令和元年度開催)

開催時期 内容
第 1回 2019年4月7日 薩摩軍、川尻に現れる
第 2回 2019年5月5日  奪われた聯隊旗の行方
第 3回 2019年6月16日 馬からこけた聯隊指揮官
第 4回 2019年7月7日 西南戦争の関ヶ原
第 5回 2019年8月4 雨はふるふる田原坂
第 6回

2019年9月8日

熊本城の密使たち
第 7回 2019年10月13日 民謡「田原坂」こぼれ話
第 8回 2019年11月10日 地獄峠の激闘
第 9回 2019年12月8日 日本刀だけでの死闘
第10回 2020年1月12日 美少年の兵士たち
第11回 2020年2月9日 斃れた兵士たちが眠る
第12回 2020年3月8日 日本赤十字社が生まれた地(新型コロナウイルス感染拡大防止のため中止)

★ミニ講演会の様子★


第2回ミニ講演会「奪われた聯隊旗の行方」

令和元年5月5日(日)、第2回ミニ講演会を開催しました。

この日は薫風心地よく、田原坂西南戦争資料館の前で「奪われた聯隊旗の行方」と題して講演。

政府軍第14連隊長であった乃木希典が「向坂の戦い」で聯隊旗を奪われ、そのことが後に明治天皇崩御の際に殉死した要因となったこと。

また、奪った薩軍側の「手柄」の行方や、新しい聯隊旗が下賜されていたために戦後戻ってきた聯隊旗の取扱いに苦慮したことなど、聯隊旗に焦点を当てて分かりやすく解説しました。



第3回ミニ講演会「馬からこけた聯隊指揮官」

令和元年6月16日(日)、第3回ミニ講演会を開催しました。演目は「馬からこけた聯隊指揮官」。

【内容】明治10年2月22日、第14聯隊長心得乃木少佐は植木での緒戦に完敗し軍旗まで奪われ木葉へ退却しました。翌日増員した薩軍は二手に分かれて進軍。政府軍は植木の西で薩軍と遭遇し交戦しながら木葉まで後退。多勢の薩軍の攻撃は激しく本道で苦戦する吉松少佐は再三、木葉山にこもった乃木少佐に援軍を要請しますが余力がないとの回答。やむなく吉松少佐以下20余名は決死銃鎗突撃を行い、歴戦の勇者吉松少佐は戦死しました。

ところが山鹿へ向かっていた薩軍の一隊が木葉山を迂回し、政府軍の退路を遮断しようとしたので高瀬方面へ退却しようとしていた政府軍と混戦となります。

その時不幸にも乃木少佐の馬に弾があたり馬は狂騒し、あろうことか薩軍の方へ突っ走り、聯隊指揮官の乃木少佐は地面に転げ落ちました。そこに薩摩兵が襲いかかりあわやと言う時に、大橋伍長と摺沢(すりざわ)少尉試補が飛び込んで身体に弾を受けながらも乃木少佐を救出しました。

22日に続きこの日も政府軍は大敗し25名の戦死者と多くの新式銃や弾薬を薩軍にとられました。又この日は木葉・山北地域で13歳の少年が弾に当たり民間人として最初の犠牲者となりました。

戦死した吉松少佐は土佐出身で鳥羽伏見の戦いでは藩兵隊長として、戊辰の役では東征軍として活躍し、大河ドラマ「八重の桜」で取り上げられた神保雪の自刃に関した話や、当時の馬の大きさ等わかり易くユーモアを交えた説明でたくさんの拍手がありました。



第4回ミニ講演会「西南戦争の関ヶ原『高瀬の戦い』」

令和元年7月7日(日)、第4回ミニ講演会を開催しました。演目は「西南戦争の関ヶ原『高瀬の戦い』」。

【内容】官薩両軍の主力が初めて激突した西南戦争の関ヶ原ともいえる高瀬の戦いは2月25日から27日にかけて戦われ、その間、政府軍では三好少将や乃木少佐が負傷し、薩摩軍では西郷隆盛の末弟・小兵衛が戦死、息子の菊次郎も負傷しました。

経済の要衝、高瀬の町の争奪戦で町の大半が焼け、多くの農民も被害にあい大きな爪痕を残します。

2月25日、政府軍は進撃してきた薩摩軍と激しい戦闘となりましたが決着がつかず翌26日、政府軍はいち早く菊池川を渡河し薩摩軍と白石付近で戦闘となります。

薩摩軍は正午頃には後退を始めますが、負傷した加治木隊16名は取り残され会津の白虎隊同様悲しい集団自決をしました。

乃木隊は追撃して戦略上重要な田原坂を確保しますが、三好少将の厳命により撤退し禍根を残しました。

2月27日、薩摩軍は三面合撃作戦をとりますが、高瀬大橋を破壊され菊池川を渡河できず政府軍は大浜津方面より侵入した薩摩軍の為、高瀬米蔵や高瀬の町を焼き抵抗します。このとき西郷隆盛の末弟・小兵衛は31歳で戦死しました。

元玉名方面では乃木少佐が負傷しますが、政府軍は重要拠点の稲荷山を占領し南関道から増援部隊を送り込みます。このような時に薩摩軍の篠原隊は、弾薬不足の為、独断で菊池川岸から撤退し、これにより形勢が逆転し政府軍優勢で終わり、次の最大の激戦地となった田原坂、吉次峠の戦いへと移っていきます。

また、日赤の発祥の事や負傷した西郷菊次郎が戦後玉名の作り酒屋を表彰した事など隠された多くのエピソードを紹介し、第4回ミニ講演会も盛況のうちに終わりました。



第5回ミニ講演会「雨はふるふる田原坂」

令和元年8月4日(日)、第5回ミニ講演会を開催しました。演目は「雨はふるふる田原坂」。

【内容】西南戦争最大の激戦は明治10年3月4日から3月20日までの17昼夜にわたり植木町田原坂で行われました。

熊本城を築いた加藤清正は熊本市の北西部に位置し玉名、南関に通じる重要な街道である田原坂を北の守りの最重要地点として考え、様々な仕掛けを施していました。高瀬の戦いで敗れた薩摩軍は熊本城への援軍をここで食い止めようとして防塁を築き政府軍を迎え撃ったのです。

折から50年ぶりの大寒波の年であり、田原坂の戦いの17日間は晴れた日は数日しかない悪天候の中で両軍は血みどろの戦いを繰り広げました。

一の坂、二の坂、三の坂のわずか1200mの坂道や、地獄峠と呼ばれ恐れられた吉次峠、警視抜刀隊が活躍した半高山などの戦闘の経緯を説明。

天候と武器の関係なども織り込みながら6回の総攻撃のあらましを紹介し、第5回のミニ講演会も盛況のうちに終わりました。



第6回ミニ講演会「熊本城の密使たち」

令和元年9月8日(日)、第6回ミニ講演会を開催しました。演目は「熊本城の密使たち」。

【内容】明治10年2月18日、熊本鎮台は正午を期して籠城に入りますが、翌日には原因不明の失火に襲われ、城も市街も多くが猛火に包まれました。22日には薩摩軍の熊本城攻撃が開始され、長期戦の様相となります。

通信を絶たれた熊本鎮台は、密使を出して援軍との連絡を試みます。2月24日には宍戸正輝鎮台監獄看守と県職員2名がひそかに城を出ましたが、翌日には県職員の首が城内に投げ入れられました。

そこで、佐賀の乱で活躍した谷村計介伍長を抜擢し、26日政府援軍本営に向かわせます。谷村は途中で佐々隊等に2度捕らわれましたが機転を利かせて脱出。3月2日、やっとの思いで玉名の援軍本営にたどり着き、城内の状況報告と援軍要請の大役を果たすことができました。

しかし、そのわずか2日後の3月4日、田原坂の第1次総攻撃に参戦し戦死を遂げています。

谷村は薩摩領であった宮崎県倉岡郷の出身。身内も含め薩摩軍に加担した者がほとんどでした。そのせいか戦後戦死慰金をもらいに行った父親は何者かに背後から銃殺されています。

 戦後、時代の要請もあり各地で谷村の功績を称える記念碑や銅像などが建てられました。修身の教科書にも載って時代の寵児にまつりあげられ、従5位が贈られました。養嗣子の谷村定規も努力の人で陸軍少将まで出世しています。今は玉東町の宇蘇浦官軍墓地で静かに眠っています。



第7回ミニ講演会「民謡『田原坂』こぼれ話」

令和元年10月13日(日)、第7回ミニ講演会を開催しました。演目は「民謡『田原坂』こぼれ話」。

【内容】『民謡・田原坂』は、西南戦争を題材にしたものですが、明治10年の戦争当時ではなく、従軍し生き残った人たちが戦後、集まって当時を偲んで唄った「酒盛り唄」、「お座敷唄」で日露戦争ころに出来たという説もあります。

鹿児島では豪傑節「田原坂」、熊本では濟々黌中学校の舎監となった熊本隊の岡本源治が明治21年に田原坂に遠足に行ったとき即興で歌ったと言われています。

大正15年に愛宕山のNHK放送局で留吉さん(熊本検番)の唄がラジオ放送され、西南戦争50周年祭では新聞記者の入江白峰が補作を行っています。

昭和になると振り付けができ、芸妓さんが街を練り歩き人々を驚かせました。テンポも速くお銚子が入り歌詞に「左手に生首」とあるリアルなザレ唄調の曲や「豪傑節 田原坂」も発売され、その後「正調 田原坂」と呼ばれるものやスローテンポなもの、昭和29年には「音頭調の田原坂」が小倉出身の赤坂小梅さんにより発表され、高松宮殿下ご臨席の第6回全国レクリエーション大会(熊本)で踊られました。

『民謡・田原坂』は古唄→元唄→正調→音頭調と変化しながら、今も全国で唄いつがれています。



第8回ミニ講演会「地獄峠の激闘」

令和元年11月10日(日)、第8回ミニ講演会を開催しました。演目は「地獄峠の激闘」。

【内容】田原坂の戦いは余りにも有名ですが、これに劣らない激闘があったのが「越すに越されぬ もうひとつの道 吉次峠」です。

吉次往還は大砲を通すには少し不便ですが熊本城まで行く重要な道でした。その関所ともいえる吉次峠を守るため高瀬の戦いで後退してきた薩摩軍と熊本隊の佐々友房達がここに陣を築きました。

田原坂攻撃と同時に3月3、4日昼夜休まず政府軍が攻撃を加えますが攻めあぐね、4日午後薩摩軍の逆襲で伊倉、高瀬方面に後退します。その間に赤裏の外套を翻し銀装刀を揮(ふる)い陣頭指揮していた薩将篠原国幹は政府軍により狙撃され、命じた元部下の江田少佐も薩摩軍により撃たれ共に戦死します。

政府軍の死傷者も多く、また消費された弾丸も1日に数十万発に上り、この日以来政府軍はここを「地獄峠」と呼び恐れました。吉次峠の戦いは田原坂が陥落してからも4月1日まで続きます。

この戦いでは佐々友房が作った詩や言葉が有名です。



第9回ミニ講演会「日本刀だけでの死闘」

令和元年12月8日(日)、第9回ミニ講演会を開催しました。演目は「日本刀だけでの死闘」。

【内容】西南戦争の最大の激戦地・田原坂の戦いでは、銃火器に優る政府軍も薩摩軍の日本刀による斬り込み攻撃に大いに悩まされていました。

そこに投入されたのが警視隊による抜刀隊でした。当初は警視隊の参戦を拒否していた山縣有朋参軍は、数回に亘る総攻撃でも田原坂を突破できず、遂に警視隊の参戦を許可し、自ら「抜刀隊」と命名しました。

南関に集結していた警視隊の中から100名余の剣に優れた者を選抜し、警視抜刀隊が編成されます。3月14日未明、刀一振りだけを身につけた軽装で田原坂後方の薩摩軍陣地を攻撃します。

不意を衝かれた薩摩軍陣地は大混乱となり、壮絶な斬り合いが展開され、政府軍は4塁を奪取しました。しかし、刀だけしかないと分かると薩摩軍は猛射を浴びせかけ、奪われた薩塁を奪還しました。

次の3月15日未明、今度は横平山の政府軍を薩摩軍300人による斬り込み隊が頂上を奪います。急報を受けた政府軍本営は、直ちに抜刀隊と6個小隊で横平山奪回に向かわせます。

午後、抜刀隊の増援隊50名が参戦し、白兵戦となり形勢は逆転。横平山は政府軍の占領するところとなりました。横平山に遺棄された薩摩軍兵士は130名を超えたと言われ、政府軍も戦傷者240名と記録にあるように、多くの戦死者を出しています。

「章魚(タコ)に骨なし、ナマコに目なし、あはれ兵士に首がなし」といわれた壮絶な日本刀での戦いが展開されました。このあとも警視抜刀隊の活躍は続きましたが、西南戦争の警視隊の参戦者は13,391名で、戦死者は900名にも上っています。



第10回ミニ講演会「美少年の兵士たち」

令和2年1月12日(日)、第10回ミニ講演会を開催しました。演目は「美少年の兵士たち」。

【内容】平成2年、樹齢350年とも言われる田原坂公園の大楠の前に、馬に跨る美少年像が設置されました。金属工芸(鍛金)の第一人者鬼頭正信氏の製作によるもの。若くして犠牲となった少年が描かれていますが、特定のモデルがあるわけではありません。

しかし巷では何人かのモデルらしき人が噂されていて、講演会ではその名前と経緯を紹介しました。

田原坂付近で戦った若き薩軍の兵士たちをみてみると、まず西郷の右腕とも言われた村田新八の長男「村田岩熊(本名岩田熊)」があります。アメリカ留学を経験し天資俊敏と謳われ将来を嘱望されていた人物。伝令使として活躍していましたが、親の叱咤激励により前線に出て田原坂で戦死しています。英文交じりの彼の手帳を見た東京日日新聞の福地源一郎は、現地から深い哀悼の記事を書き送っています。

また、戦後財界で活躍した高橋長秋の実弟「高橋長次」も名前が挙がります。田原の戦いで傷つき、搬送中に敵中に刀を残してきたことを恥じながら絶命。両親宛の遺書には「余は深く不孝の罪を謝す。然れども戦陣勇無きは亦孝に非ず」と記しています。没年16歳。その純真さには心打たれます。

他に、人吉・尚兵館の「三宅伝八郎」もその一人です。反政府軍として起ち上がりますが県令の軍に包囲されて、薩軍へ援軍要請のために馬を駆るも犠牲となった人物。昭和38年にこまどり姉妹が唄い、その半年後には北大路欣也主演の映画にもなっています。

また、乃木大将殉死の要因である軍旗喪失事件時の薩軍を嚮導(きょうどう)していた「高田露(戦後国会議員で活躍)」の活躍や、荻迫柿の木台場で年若くして活躍し今も地元民に守られ供養されている「束野孝之丞」の苗字にまつわる調査の経緯等について紹介しました。

私たち田原坂ガイドの会は、日本赤十字発祥の地とされる田原坂で、毎年1万人を超す人々にガイドを行っています。修学旅行生や観光客の皆さんに悲惨な戦闘状況を語る一方で、壊れやすい平和を如何にしたら守れるか又守っていくかの問いかけをすることも私たちの使命ではないかと思いながら、ガイドを務めている現状です。(小宮計則)

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第11回ミニ講演会「斃れた兵士たちが眠る」

令和2年2月9日(日)、第11回ミニ講演会を開催しました。演目は「斃れた兵士たちが眠る」。

【内容】明治10年2月15日から9月24日までの7か月に及ぶ西南戦争では、鹿児島、熊本、宮崎、大分が戦場となり、政府軍と党薩諸隊を含む薩摩軍合わせて約1万4千人の尊い命が失われました。

官軍墓地は近くには七本官軍墓地(植木町)、宇蘇浦官軍墓地・高月官軍墓地(玉東町)、山鹿(宥明〈ゆうめい〉堂)官軍墓地(山鹿市)、高瀬官軍墓地(玉名市)、南関町(城ノ原)官軍墓地・肥猪官軍墓地(南関町)などがあり、熊本県内21か所、全国に50か所あります。

初めは木製の仮墓標でしたが、明治11年以降、石製の墓標に建て替えられ、墓石には階級、氏名、所属隊名、戦死した日、場所及び出生地などが刻まれています。

一方の薩軍墓地としては、南洲墓地(鹿児島市)、七本薩軍墓地(植木町)、薩軍三勇士の墓(玉東町)などがあります。

次に、主な戦場で斃れた兵士たちについて、その人物像に触れながらお話をしました。

①熊本城攻防戦で斃れた與倉知實中佐
②山鹿から熊本協同隊として参戦した、野満安親・冨記兄弟(熊本城総攻撃で戦死)と従兄弟の野満長太郎(8月17日投降)。同じく熊本協同隊に身を投じて戦死した徳永慎太郎三兄弟
③向坂の戦いで斃れた、官軍・河原林雄太少尉
④木葉の戦いで斃れた、吉松秀枝少佐
④高瀬の戦いで斃れた、西郷小兵衛
⑤山鹿口の戦いで斃れた、薩軍・村田三介(5番大隊2番小隊長)
⑥田原坂・植木近郊で斃れた、伴兼之・鱸成信兄弟、榊原政治、村田岩熊、束野孝之丞、篠原国幹
⑦熊本近郊で斃れた、永山弥一郎、宮崎八郎、佐川官兵衛、宇月平作
⑧宮崎・鹿児島(城山)で斃れた、小倉処平(飫肥隊)、小倉壮九郎(薩摩軍3番大隊9番小隊長、東郷平八郎の実兄)
➈奄美の勝手世騒動の軍夫について紹介しました。

党薩諸隊を含めた薩摩軍は総勢約3万人、対する政府軍(官軍)は約6万人が戦争に加わりました。合計9万人の内、約1万4千人がこの戦争で亡くなっています。薩摩軍兵士もそれを制圧した政府軍(官軍)兵士も、国家の繁栄を想いその命を捧げたのでした。

この戦争で政府軍が勝利したことにより、武士の時代は終わりを告げ、近代国家形成への歩みを進めることになります。

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