令和2年度植木公民館講座開講ー第1回ー

令和2年度植木公民館講座

新型コロナの影響で開催が延びていましたが10月4日(日)、令和2年度植木公民館講座を開講することができました。この日は初回でもあり、西南戦争全般のご理解を深めていただくために「西南戦争の流れ」を話しました。概要は以下のとおりです。

第1回「西南戦争の流れ」

 江戸時代末期の1853年(嘉永6年)6月、ペリー率いる黒船の蒸気船が港の開港・開国を要求し浦賀湾に入港します。これによって、幕末動乱の時代が始まり、日本は近代国家への時代の大きな変動期を迎えます。

 1854年(嘉永7年)2月、日米和親条約を締結、伊豆の下田、北海道の箱館の二港を開港しました。

 ペリー来航から14年後の1867年(慶応3年)年には、15代将軍徳川慶喜が大政奉還し、260年以上続いた徳川幕府が終わります。大政奉還後、薩摩と長州を中心とした討幕派は、王政復古の大号令を発し、天皇を中心とした国家、明治政府を樹立しました。そして、版籍奉還や廃藩置県を断行します。中央集権体制を確立し、「富国強兵」「殖産興業」を旗印に、急速に近代化をすすめていきます。

 新制度の中には、①四民平等、②徴兵制、③廃刀令、④秩禄処分などがあったため、江戸時代までの支配階層であった武士の特権を奪う形となり、次第に新政府に対する士族(武士)の不満や反発が噴出するようになります。

 士族の不満の盛り上がりが見られ始めた1873年(明治6年)、西郷隆盛は、朝鮮の開国を急ぐ政策(征韓論・遣韓論)を打ち出していましたが、岩倉具視、大久保利通達の反対意見に敗れ、西郷に殉じて、当時新政府の中心的役割を担っていた鹿児島出身の官僚や軍人多数と共に、鹿児島に帰郷し士族を中心とした私学校を設立します。

 やがて、私学校は反政府的な士族集団の中心となりました。

 1874年(明治7年)2月4日、佐賀の乱、1876年(明治9年)10月24日、神風連の乱、10月27日秋月の乱、10月28日萩の乱が勃発します。

 明治政府は、私学校の動きを警戒し、鹿児島にあった弾薬製造所を、大阪に移転しようとします。これに私学校生徒らが激怒し、政府の陸軍火薬庫を襲い、弾薬6万発を奪う事件が発生しました。

 そして、政府は私学校の動向を探る密偵を派遣し、そこに西郷の暗殺計画の目論見のあることが発覚します。結局、これを政府の非行として、「政府を尋問の為」挙兵が決定し、東京へ兵を率いて行くことと。

 1877年(明治10年)2月15日から、総勢1万3千人の各隊が、鹿児島を出発しました。2月19日、「鹿児島賊徒征伐」の勅命が下り、明治政府が薩摩軍を賊軍として開戦布告し、征討総督に有栖川宮熾仁親王、参軍に山縣有朋(陸軍・長州)、川村純義(海軍・薩摩)が任命されました。

 その同じ日、政府軍が籠城戦を決定していた熊本城内で火事が発生し、天守閣、本丸御殿、城下の町まで全焼します。

 2月22日、薩摩軍は熊本城内に立て籠る政府軍へ総攻撃をしかけます。薩摩軍が熊本城に総攻撃を開始した2月22日の夜、熊本城をめざしていた乃木希典少佐(当時)率いる政府軍・小倉14連隊は、一部の部隊を熊本城攻撃に残して北上していた薩摩軍と、緒戦を交えた場所が植木の向坂でした。

 

 この時、薩摩軍の凄まじい攻撃に押され退却する際、政府軍歩兵14連隊旗を託された、河原林雄太少尉(福岡県士族・小倉)が薩摩軍に連隊旗を奪われてしまいました。

 2月23日、植木を退却した乃木少佐率いる政府軍14連隊は、北へ進撃してきた薩摩軍を、木葉で食い止めようとつとめ、迎え撃ちます。これが「木葉の戦い」です。

 一方乃木少佐率いる政府軍14連隊は、薩摩軍の凄まじい勢いに押され、木葉から撤退し高瀬にたどり着きます。

 2月25日、政府軍の本隊が高瀬の近く、南関に到着しましたので、乃木少佐はやっと体制を立て直すことができました。ようやく、勢いを取り戻した政府軍14連隊は、2月25日から27日の菊池川をはさんだ高瀬の戦いで、優勢に戦いをすすめ、再び熊本城を目指して進軍していくことになります。

 2月27日 高瀬から撤退した薩摩軍は、12,000人の兵力を田原坂、吉次峠、山鹿に送り、熊本城を目指し南下する政府軍を迎え撃つため、約20km(5里)に及ぶ防衛陣地を築きます。田原坂は政府軍の砲兵隊が、四斤山砲を引いて熊本城に続く、植木台地に登れる唯一の熊本への通路でした。この坂は、切り落とされたような断崖地形と一の坂、二の坂、三の坂からなる、長い急こう配の坂です。

 薩摩軍側は、政府軍が確実にここを通過するとにらんで、厳重な守備体制の布陣をとりました。

 3月4日 政府軍が田原坂に進撃し、この日から20日までの17日間の戦いが始まりました。政府軍・第一次総攻撃(3月4日)では、戦いは激しく、一日30万発の銃弾が飛び交ったそうです。田原坂のある植木台地には、多くの防塁が築かれ、田原本道の地形は、左右の畑より道が低くなっている凹道が蛇行しているため、正面からの狙い撃ちと、両側からの銃撃、更に背後からの退路を断たれて斬り込まれるなど、熊本城北の要害として攻めにくく、守りやすい特徴がありました。この1,160mの坂道は、加藤清正が熊本城の北の守りとして造りました。

 政府軍・第二次総攻撃(3月6日)の田原坂本道正面・左右からの攻撃は成果があがりませんでした。

 政府軍・第三次総攻撃(3月7日)において、田原坂正面攻撃に加え、田原坂の西側にある二俣台地を占領し、ここに大砲陣地(砲台・8門)を築き、側面からの攻撃を開始します。砲撃は、朝から夕暮れまで終日続き、田原坂の薩摩軍に打撃を与えました。

 政府軍・第四次総攻撃(3月11日)では、横平山、二俣口、田原坂本道の3正面を攻撃します。

 3月13日には、政府軍は「警視抜刀隊」を組織、約100名の政府軍・警視抜刀隊は、田原七本の柿木台場付近、ここが世に名高い警視抜刀隊の初陣でした。田原坂や横平山を突破する原動力となって大いに貢献しました。

 政府軍は第五次総攻撃(3月17日)で田原坂本道を攻撃。

 政府軍は第六次総攻撃(3月20日)を早朝から開始、この日は、夜半から雨が降り注ぎ、濃霧が田原丘陵をおおっていました。政府軍は二俣口から潜行して薩摩軍に近づきます。午前6時、号砲3発を合図に三方向から一気に攻撃を開始しました。この時、七本方面を守備していたのは、新しく配備されて、この地に慣れていない宮崎の高鍋隊でしたので、不意を突かれ、大混乱しました。薩摩軍は総崩れとなり、17日間にわたり、政府軍を阻止し続けた薩摩軍の守備隊も、政府軍の攻撃に耐えきれず撤退し、田原坂地域での戦いは終わりました。

 田原坂の堅個な陣地を突破した政府軍には、第二の田原坂が待ち構えていました。それが、植木・滴水・荻迫・木留・辺田野・三の岳での戦いです。

 

 田原坂の戦いが17日間だったのに対し、ここでの戦いは27日間(3月20日~4月15日)も継続したことからも、いかに政府軍の前進がこの戦線で停滞したかがわかります。ここでも、熊本進出を阻止され、薩軍が退却するまで作戦目的を達成できませんでした。

 4月14日、山川浩中佐(元・会津藩家老)率いる衝背軍先鋒が熊本城に達しました。

 4月15日、薩摩軍は本営の指令により、心ならずも北方の守備を解くこととなり、木山方面に撤退。城北の戦闘はこの日をもって終了しました。薩摩諸隊が熊本城、城北の戦線より撤退しました。

 4月17日~20日 城東会戦。薩摩軍は、御船・保田窪・健軍・大津の戦いで敗北。薩摩軍本営は木山から、矢部へ撤退、そして人吉に退きます。

 4月28日~5月29日 人吉での両軍の攻防が1か月続きます。

 4月28日頃、薩摩軍は人吉に集結し、本営は球磨川のほとりの永国寺(ようこくじ)に置かれました。

 西郷は、政府軍総攻撃前夜の5月29日、人吉を出て宮崎に向かいます。

 5月 鹿児島の出水・大口、大分の竹田、宮崎の三田井の戦い

 7月 都城の戦い、8月 高鍋・延岡へ。

 8月15日 和田越えの戦い

 薩摩軍は西郷隆盛が、政府軍は山縣有朋が、西南戦争中、両軍の総大将が初めて陣頭指揮をとりました。

 8月16日 薩摩軍党薩諸隊に解散命令。16日夜、薩摩軍幹部は、西郷の宿営所、児玉熊四郎宅(現・西郷隆盛宿陣跡資料館)に集まり、最後の軍議を開きました。

 8月17日 夜、薩摩軍本隊約600名は、脱出行軍を開始しました。西郷の宿陣前の可愛岳登山口から出発し、険しい山道を政府軍の包囲を突破し、鹿児島へ向かいました。

 9月1日 薩摩軍は故郷、鹿児島市街地に突入しました。

 辺見隊は、午前11時頃私学校を襲撃、駐屯していた新撰旅団の輜重隊(しちょうたい)を追い出してこれを奪取しました。背後の城山にいた政府軍も敗れ、薩摩軍の占領下に置かれます。西郷、桐野以下が続々と到着し、鹿児島の中心部は薩摩軍の手に落ちました。

 9月24日午前4時、3発の号砲を合図に城山めがけて政府軍は総攻撃を開始。

 午前6時には、政府軍城山を制圧。午前7時には、政府軍勝利を知らせる祝砲を放つ。西郷隆盛は被弾して負傷、別府晋介の介錯で自害したと伝えられています。 

 多大な死傷者を出した西南戦争、薩摩軍は党薩諸隊を含め総勢約3万人、対する政府軍は約6万人が戦争に加わりました。合計9万人の内、約1万4千人がこの戦争で亡くなりました。薩摩軍もそれを制圧した政府軍も、国家の繁栄を想いその命を捧げたのです。

 またこの戦争で政府軍が勝利したことにより、日本の近代国家形成の礎となりました。