田原坂・周辺の史跡

西南役戦没者慰霊之碑

慰霊碑には西南戦争80周年の昭和32年に両軍の戦没者合わせて約14,000人の御霊安かれと分かる限りのすべてのお名前を記してあります。また慰霊塔は眼下をはしるJRの窓からも拝めるように12.5mと高く建てられました。

弾痕の家(復元)

西南戦争時、田原坂の頂上(植木町大字豊岡休居2244番地)にあった松下彦次郎家の土蔵は、両軍の銃弾で無数の疵を受けました。

田原坂の戦いの直後に、長崎の写真師・上野彦馬氏撮影の写真と、明治13年、熊本の写真師・富重利平氏撮影の写真が残されています。


七本薩軍墓地

田原坂公園を南に行くと薩軍墓地があります。この墓地は、七本周辺で戦死した薩軍兵士311名が埋葬されています。ここには薩軍の大きな台場がありました。

3月20日、濃霧に乗じて政府軍が総攻撃を開始し、薩摩軍の寝込みを襲いこの地を占領しました。田原坂後方にある七本を占領された薩摩軍は、植木方面へ敗走、逃げていく薩軍兵士達を政府軍は狙いを定めて狙撃しこの周辺が血で真っ赤に染まったと言われています。

西南戦争最大の攻防戦は、ここ七本の陥落で幕を下ろしました。

七本官軍墓地

七本官軍墓地には、西南戦争で戦死した政府軍の軍人276名、軍夫10名、警察官14名を埋葬した官軍墓地です。

墓碑には、階級、氏名、所属隊名、戦死した日、場所および出生地などが刻まれています。軍旗事件で有名な14連隊所属の河原林雄太少尉ほか、植木、滴水、木留などの戦闘で戦死した東京、大阪、名古屋、広島および熊本鎮台の兵士などが埋葬されています。


背負いの松

兄の鱸成信は庄内藩出身(山形)で政府軍の陸軍少尉として出征し、弟の伴兼之は当時、西郷隆盛を慕って私学校に留学中だったので薩軍として西南戦争に参戦する悲劇となりました。兄弟相分かれて戦い、相前後して共に戦死しました。

七本官軍墓地の松は、明治27年に兄弟の遺族が故郷より松を背負ってきて供養の為に植えたので『背負いの松』と言われています。

崇烈碑

明治13年に陸軍省工兵第6方面により建設されました。石材は熊本県八代市沖の水島附近採取の石灰岩を使用し、規模は総高6m,敷地は一辺8.7mの方形で、石碑の高さ3.9m,幅1.9m,厚さ0.4~0.6mです。

碑文と篆額は征討総督の有栖川宮熾仁親王です。書は当代随一の書家と言われた陸軍省秋月新太郎によるもので、楷書の手本として全国の書道家が見学に訪れています。

碑文には当時の社会情勢や戦いの推移及びその激戦の様子などがまとめられていて田原坂の激戦と勝利の意義、戦没者の顕彰が官軍の立場から刻まれています。西南戦争に関する記念碑で明治政府が直接関与したものは他にはありません。


田原坂公園の大楠

樹齢350年とも400年とも言われる田原坂の大楠は戦闘の帰趨を決した田原坂の激戦の模様を見てきた生き証人です。今も幹枝を金属探知機で調査すると数カ所に銃砲弾による金属反応があります。 

樹 高:約19メートル

幹回り:約5メートル  

枝張り:約30メートル

樹 齢:樹木医によると約400年(350年など諸説あり) 

美少年像

《美少年のモデル》

薩軍が募集した兵隊の中にはわずか13歳の少年兵もいました。特定のモデルはいませんが当時すでに欧米に留学していた優秀な若者や、九州各地や遠い東北から薩摩に留学していた純粋な少年等が無残にも親子兄弟に分かれて戦い死んでいきました。これらの将来ある若者が生きていたらどんなに社会の為に活躍できたでしょうか?


豊岡眼鏡橋

熊本県最古の石造りの眼鏡橋です。田原坂の戦いでは政府軍はここを拠点として出撃しました。この橋は、ほぼ当時のままと言われています。 

田原坂《一ノ坂、二ノ坂、三ノ坂》

標高差約80m1.2kmの坂道で当時大砲などが通れる唯一の道でした。この坂を巡り西南戦争最大の戦いがありました。

約400年前、熊本城を造った加藤清正が北の軍事的要衝として守りやすく攻めにくい様に多くの細工をしたと言われています。『越すに越されぬ田原坂』とうたわれ、熊本城と共にその実力が遺憾なく発揮されました。


展望台

北側は玉名や木葉山があり、正面には政府軍砲台跡が見える二俣台地そして鹿児島本線が通る船底。南側は警視抜刀隊等が活躍した横平山や吉次峠・三ノ岳を一望のもとに見ることができます。

熊本市田原坂西南戦争資料館

西南戦争の顛末がビジュアルルームを含め生々しく窺え、発掘された数多くの遺品や遺物が展示されています。