公民館講座第5回「高瀬の戦いパートⅡ」

植木公民館講座

第5回「高瀬の戦いパートⅡ」

公民館講座第5回は令和2年12月13日(日)、植木公民館研修室において「高瀬の戦いパートⅡ」と題して行いました。主な内容は次のとおりです。

西南戦争といえば田原坂や熊本城の戦いが有名ですが、2月25日から27日にかけての高瀬での戦いは、両軍が初めて主力同士で戦った事実上の「天下分け目の戦い」でした。

 

ではなぜ高瀬が激戦地となったのでしょう?政府軍は薩摩軍に包囲された熊本城を救出する為、九州に送った大軍と大量の武器弾薬を南関から参勤交代で使う豊前街道より近道で起伏が少ない高瀬を通る三池往還を選び熊本城へ急ぎました。薩摩軍は南下する政府軍を防ぐため、植木で政府軍の乃木隊の一部を迎え撃ち押し返し、更に翌日も木葉で乃木隊を破りました。乃木隊は高瀬へ退却して政府軍の主力部隊の到着を待ち、北上してくる薩摩軍と菊池川を挟み、いよいよ天下分け目の高瀬の戦いが始まるのです。

 

【第一次高瀬の戦い2月25日】政府軍の14連隊は岩崎原や本道の南、石貫川堤防等に散開し、先鋒は夜明けの高瀬町に進出し薩摩軍に備えると共に援軍を待ちます。薩摩軍は16時を期して高瀬大橋や千田の渡を渡り一斉に攻撃を開始します。政府軍も第一連隊や第八連隊なども到着して大激戦となりますが、日没となっても決着がつかず双方とも引き上げました。

 

【第二次高瀬の戦い2月26日】政府軍は早朝出発して南関に進撃中の加治木隊を見つけて攻撃します。この時取り残された加治木隊の16名は会津の白虎隊の様に集団自決をする悲劇がありました。乃木隊は撤退する薩摩軍を追って田原坂へ進出しますが、三好少将より強い撤退命令があり引き上げる事になりました。一方、寺田では待ち伏せしていた政府軍により熊本隊の池邊隊長は負傷します。薩摩軍は作戦会議を開き政府軍に対し三面合撃作戦をすべく徹夜で2800人を熊本より高瀬に送ります。

 

【第三次高瀬の戦い2月27日】政府軍は高瀬大橋の一部を破壊。迫間と千田渡方面の防備を固めます。田原坂を越してきた篠原隊は政府軍を攻撃し渡河しようとしますが政府軍の激しい銃撃の為に渡れず西郷菊次郎も右足に重傷を負いました。村田隊も千田の渡しで政府軍の激しい抵抗で渡河できず、やむなく西郷小兵衛らは大浜津より渡河します。政府軍は耐えきれず米倉等に火をかけ後退します。村田隊もやっと渡河し高瀬の中心部に進出します。山鹿の桐野隊は内田の渡しから南下し玉名大神宮付近で政府軍と激突、この時乃木少佐も負傷します。戦局は薩摩軍優位のうちに展開していましたが中央の篠原隊が突然独断で撤退した為、政府軍は息を吹き返し薩摩軍は崩壊し東上の夢も潰えました。

 

【エピソードの紹介】

1) 西郷隆盛の最愛の弟の小兵衛の戦死に纏わる松子夫人からの礼状

2) 高瀬は兵站基地として賑わったが兵火のため港町としての機能を失った。

3) 西郷菊次郎は高瀬の戦いで重傷を負うが戦後、政治家・外交官として台湾や京都で活躍

4) 集団自決した加治木隊の16名は地元民により供養され戦後110年後に公に知られる

5) 征討総督有栖川宮 博愛社の設立許可、和宮との悲劇、戊辰戦争時の参謀と対決

6) 池邊吉十郎の池邊塾門下生の戦後の活躍