公民館講座第4回「民謡:宮崎八郎と女たち」

植木公民館講座

第4回「民謡:宮崎八郎と女たち」

公民館講座第4回は令和2年12月6日(日)、植木公民館研修室において「民謡:宮崎八郎と女たち」と題して行いました。講座の内容は次のとおりです。

1.宮崎八郎の生い立ち

1851年宮崎政賢と佐喜の次男として生まれ、藩校時習館に入学。遊学生として上京し西洋近代思想を学ぶ。征韓論決裂に憤慨したりして、佐賀の乱の時に帰県したが間に合わず、4月には同志を集め征台の役に参加。

24歳で同志と植木学校を創設し自由民権運動の先駆者として活躍。

翌年上京し評論新聞記者となり中江兆民らと交わる。神風連の変の前頃に帰熊する。

西南戦争では熊本協同隊を組織し参謀長として活躍。4月八代市萩原堤にて戦死。

 

2.宮崎八郎と女たち

『お浪さん』宮崎八郎は熊本で「高瀬屋」を定宿にしていたが、そこの娘のお浪とねんごろとなり、お浪は戦が始まっても山鹿の八郎に会いに行き、他の隊員の反感を買っていた。隊長の平川惟一が戦死した時も、資格も経験もある八郎だが後任には選ばれなかった。お浪は八郎の戦死を聞き狂気となり萩原堤を彷徨い消息を絶ったとの事である。

 

八郎にはもう一人南関に許婚「江上アサ」がいた。八郎の戦死を聞いたアサは下僕を連れて戦死した場所に行き、遺骨を探し荒尾の宮崎家へ届けている。

江上アサは操を立てていたが田之浦の赤松館で有名な資産家藤崎彌一郎の後妻におさまり、料理ブームを作った「江上トミ」を生む。

 

3.宮崎家の兄弟と女たち

宮崎家には八男三女の兄弟がいたが早世したりして、八郎の弟で三池藩家老立花碩の次女ミイを娶った民蔵と前田案山子の三女ツチと結婚した寅蔵(滔天)が有名である。

 

特に寅蔵(滔天)は孫文等を助け辛亥革命を支援しているが、夏目漱石の草枕のモデルと言われているツチの姉ツナ共々健気な努力に支えられて活動をしている。

寅蔵(滔天)とツチの間に後の白蓮事件の龍介が生まれている。

 

4.白蓮

柳原燁子(白蓮)も数奇な運命に翻弄されている。

日米通商条約締結の正使であった幕臣新見正興が明治維新後没落し、娘のりょうは姉と共に柳橋の芸子となり伯爵柳原前光との間での燁子をもうけた。柳原前光の妹が大正天皇の生母であり、燁子は大正天皇の従妹にあたる。しかし14歳で結婚し出産したが離婚。23歳で東洋英和女学院に編入し村岡花子などと知り合う。

 

1910年『家族の令嬢が売物に出た』と騒がれた伊藤伝衛門と再婚。家庭環境が違いすぎ、燁子は不遇の中で伝衛門の別荘あかがね御殿で詩歌に専念し『筑紫の女王』と言われていた。雑誌の編集で宮崎龍介と出会い道ならぬ恋に走りとうとう『白蓮事件』と言われる出奔事件を起こした。その後華族剥奪や龍介の病気等紆余曲折があったが宮崎家と共に苦難を乗り越え白蓮は81歳で没した。龍介との間に生まれた蕗苳は現在も健在である。

 

5.宮崎八郎と縁がある女性たちのエピソードや民謡を交えた楽しい講座であった。